2012年8月27日

オーストラリア人のルーツは囚人

「ルーツ」というTVドラマをご存知の方は多いだろう。1977年にアメリカで制作されたTVミニシリーズで、アメリカの歴史を語る時、避けては通れぬ黒人奴隷の問題を真っ正面から描き、社会現象とも言える大反響を巻き起こしたドラマだ。

この番組放送後、世界的に自分の「ルーツ」探しが流行った。

オーストラリアでも、自分達の「ルーツ」をテーマにしたTVドラマが制作されたのだが、それが今日紹介したい「Against The Wind アゲインスト・ザ・ウインド」である。


オーストラリアという国は、ご存知のように英国の囚人流刑地として始まった。

流刑植民地の開発が始まったのは1788年のこと。初代総督として有名なアーサー・フィリッ プを船長とした移民第一団が11隻の船でやって来たのが1788年なのだが、この時の移民約1000人ほどのうち772人が囚人(Convicts コンヴィクツ)であった。

イギリスを出向した時点での囚人数は772人で、航海中に死んだ囚人の数が40人。8ヶ月を要したこの航海におけるこの40人という死者数は、著しく少なかったというのだから当時の航海の過酷さが少しは想像できるというものだ。

これら772人の囚人のほとんどが、ロンドンのスラムに住む貧しい人々で、貧困のために窃盗を働いた者達だった。窃盗といっても、当時は砂糖ひとかけら、下着一枚、わずかな小銭を盗んだ程度でも重い刑罰を科せられてオーストラリアへ送られたのだ。そして植民地建設のために働かされた。

この「Against The Wind」というドラマは、植民地建設が始まってしばらくたった1798年に、当時英国の植民地となっていたアイルランドから囚人としてオーストラリアへ送られた18歳の聡明な少女 Mary Mulvane の15年にわたる人生を描いている。

当時のアイルランドは英国の占領のもとで差別と搾取に苦しめられていた。理不尽な理由によって奪われた乳牛を取り返そうとした罪で流刑となった少女のドラマが、史実に基づくエピソードを交えて語られる。

植民地開拓時に治安維持のために派遣された「ニューサウスウェールズ軍団」の隊員の多くは腐敗しており、政治的特権を利用し、有力者達と組んで莫大な利益を得ている者もいたそうだ。植民地行政を牛耳る彼らの権力は絶大で、それを規制しようとする総督に反乱を企てた「ラム酒の反乱」というのがある。

私は、オーストラリアの開拓の歴史など断片的に知っていただけだったから、このTVドラマのおかげで興味がわき、いろいろな文献を読んでもう少し詳しく知ることができた。

現在のシドニーは近代的なビルが立ち並ぶ大都市だが、最初は囚人たちが建てた小さな家から始まった。 囚人たちのほとんどは、刑期を終えて自由市民となっても本国に戻ることは叶わず、オーストラリアの地で一生懸命に働いて、農地を開き、家を建て、道を作り、鉄道を敷き、この国を作り上げていったのだ。

アボリジニとの問題は、このドラマには描かれていない。テーマが「オーストラリアの歴史」ではなく「オーストラリア人のルーツ」であるからだろう。

その後、オーストラリアが牧羊や農業に適した土地であることや金をはじめとした資源が豊富であることが知られるようになって、オーストラリアへの移民は自由移民が中心となり、囚人の流刑は1868年に廃止される。

以前は、自分が囚人の子孫であるということを恥じる風潮もあったそうだが、現在のオーストラリア人にとって、囚人の子孫であるということは真のオーストラリア人のしるしであり、それを誇らしく話す人がほとんどだ。

私の友人も、自分の先祖はブタ泥棒だと面白そうに話してくれたことがある。前オーストラリア首相のケヴィン・ラッドの先祖も砂糖泥棒の曾々祖父や下着泥棒の曾々々祖母がいるそうだ。

このTVドラマ「「Against The Wind」は、DVD4枚セットで販売されています。レンタルショップにもあるかもしれません。オススメです。

<追伸>

ご心配をおかけしておりますが、腰痛は一晩で大変良くなり、今こうしてこれを書いている間中座っていられるほどです。腰の筋肉を強くするためには、とにかく歩く必要があると再認識いたしました。歩けるようになったら、マスクとゴーグルをつけて歩きに出ます。最低週3回!

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